2021年3月7日(日) 主日礼拝

自宅礼拝資料はこちらです。週報はこちらです。ファイルが開けない場合は、下記の順序に従って礼拝してください。
説教の録音はこちらです(礼拝が終わってから掲載)。

<黙祷>

<招詞> 一コリント1:22-25

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 3

<聖書朗読> ヨハネによる福音書2:13-25

<祈祷>

神様、わたしたちは御子イエス様の十字架という高価な代価によって買い取られ、あなたの子どもとされたにもかかわらず、恵みに相応しく応えて生きることができませんでしたことを御前に告白します。
わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命へと導いてください。(沈黙)
わたしたちの主である神様、聖であるあなたの御名を讃えます。わたしたちの心をあなたの教えに従わせてください。十字架の知恵を与えられて、自分中心な罪深い思いから解放され、聖霊の賜物に心を開き、あなたの愛を宿す生きた神殿となることができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 269

<説教> 「新しい神殿」  牧師 黒田浩史

四旬節(レント)も第3週目を迎えました。今日から3回にわたり、イエス様の受難と復活をテーマに、ヨハネによる福音書から聴いていきます。

今日の場面は、「神殿清め」と呼ばれる箇所です。年に一度の過越祭を祝うため、イエス様はエルサレムに行かれました。神殿の境内には、「牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たち」がいました(14節)。神殿に礼拝に来た人たちは、献げ物の動物を家から持ち運んで来なくても、ここで買うことができました。ところが、神殿の通貨は旧約時代からの「シェケル」と呼ばれる通貨なので、当時人々が日常で使用していたローマやギリシアの通貨と両替する必要がありました。動物を高く売ったり、両替の手数料を取ったりなど、礼拝者の純粋な信仰心を利用してお金儲けをしていたのです。

イエス様はこれらの商売人たちに対して憤り、羊や牛を境内から追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と仰せになりました(15-16節)。

イエス様は、弱い人や罪を悔い改める人に対しては優しく慈しみ深い方ですが、悪や不正に対しては厳しい態度を取られるのです。

弟子たちはこのイエス様のお姿を見て、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編の言葉を思い起こしました(詩編69:10)。この「熱意」は、「わたしは熱情の神である」から、他の神々を礼拝してはならない、と言われている「熱情」と同じ言葉です(出エジプト20:5)。エルサレムの神殿そのものは、人の手が作った建物であり、キリスト教においては、もはや必要でなくなります。しかしイエス様は、礼拝をささげるためにやって来た人たちの信仰の思いを大事にされたのです。

エルサレムの神殿は、数十年後にローマによって破壊されます(紀元70年頃)。同じように、地上の全ての物質はやがて過ぎ去ります。しかしイエス様が神殿を清められたように、私たちも同じような「熱意」すなわち熱心な信仰の思いで、生活を整えたり、家の中を掃除したりして、私たち自身を清めることができるのです。

とはいえ、神殿そのものはやがて滅びます。イエス様は、御自分の体こそまことの神殿であると仰せになりました(21節)。神殿は、神様を礼拝するところですから、神様と人とが出会う場所でした。建物としての神殿の代わりに、まことの神殿であるイエス様こそ、神様と人とが出会うところです。イエス様を信じる人にとり、イエス様は聖霊によって、いつどこにいても共にいてくださいます(マタイ28:20)。

それゆえ、イエス様を信じる私たちの体が、神殿とされたのです。パウロは「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい」と語っています。

「栄光を現わす」ということで、今日の場面の直前でも、イエス様は水をぶどう酒に変える奇跡を行われ、「その栄光を現わされた」とあります(ヨハネ2:11)。この御業のことをヨハネ福音書は「しるし」と呼び、今日の場面の神殿清めの御業も、奇跡ではないのですが「しるし」と呼んでいます。

「しるし」は、イエス様また神様を指し示す何ものかのことで、地上の物質に過ぎない水やぶどう酒、清められた神殿なども、「しるし」としての役割を果たしました。同じように、朽ち行く体に過ぎない私たちの地上の体も、熱心な信仰の思いすなわち「熱意」をもって、毎日の生活を過ごすならば、神様を指し示す「しるし」となることができるのです。

人間的に何か優れたものを持っているからではなく(一コリント1:26参照)、心の中に燃え上がる信仰があり、その信仰にもとづいて少しでも身を清めて生きようとするならば、私たちの体の中に聖霊が宿ってくださり、新しい神殿とされるのです。

四旬節は、洗礼の恵みを思い起こし、再度イエス様の十字架と復活にあやかり、古い自分に死んで新しく生まれ変わる季節です。新しい神殿として、神様の前に身を献げて生きる者となりましょう。

<祈り>

神様、四旬節の恵みの季節を感謝いたします。イエス様はエルサレムの神殿を清めることにより、信仰の熱心な思いを大事にされ、私たちも身を清めてあなたの前に神殿とされて生きる道を示してくださいました。この季節、信仰の炎を再び燃え上がらせてください。あなたを思う熱意のうちに、古い自分に死んで新しく生まれ変わることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 210

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年2月28日(日) 主日礼拝

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<黙祷>

<招詞> ローマ8:34

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 2

<聖書朗読> マルコによる福音書9:2-10

<祈祷>

神様、わたしたちはあなたによって数えきれない恵みをいただいているにもかかわらず、あなたのことを忘れ、この世の欲の誘惑に負けていたことを告白します。
恵みに対して相応しく応えようとせず、自分勝手に生きていました。
わたしたちをあわれみ、罪をお赦しください。
わたしたちの救い主イエス・キリストによって、正しい道に連れ戻してください。(沈黙)
神様、あなたはわたしたちの祖先を信仰へと召し出し、わたしたちに福音の光の中を歩む恵みを与えてくださいました。あなたの御子に聞くことができるよう、わたしたちの心を開かせてください。わたしたちの人生の中に、十字架の神秘を受け入れ、あなたの御国の栄光に入ることができますように。

聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 344

<説教> 「神のような姿」  牧師 黒田浩史

40日間の長い季節である四旬節(レント)は、今日で第2週目です。4月4日(日)に復活祭(イースター)を迎えるまで、信仰の旅路をご一緒に歩んでまいりましょう。

四旬節のテーマは、イエス様の十字架と復活です。死と受難を通って、新しい命に生まれ変わることです。毎週の聖書箇所は必ずしも受難の場面ではありませんが、イエス様のご生涯全体が受難の歩みでしたから、福音書の至る所に受難のテーマが散りばめられています。

今日の場面は「山上の変容」と呼ばれ、福音書の中でも少し変わった場面です。イエス様は主だった弟子3人を連れて、山に登られました。この山は、伝統的にはタボル山(575m)とされてきましたが、ヘルモン山(2,814m)であったという説もあるそうです。(山頂まで登られたかどうかは、定かではありません。)

山に登られた目的は、十字架の道は死で終わるものではなく、その向こうに必ず復活があることを、弟子たちに教えるためでした。イエス様は今日の直前の場面で、十字架と復活の予告をされましたが(マルコ8:31-38)、弟子たちはまだ信じられなかったからです。

イエス様は弟子たちに対し、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました(同8:34)。そのお言葉の通りに、弟子たちこの後、命を懸けて福音を宣べ伝えていきます。それは、文字通り十字架の道です。しかし、その向こうには復活が待っていることを、今日の場面で前もって示してくださったのです。

山の上で光り輝く姿になられたイエス様のお姿は、復活の姿を前もって示しており、イエス様に従って自分の十字架を背負う私たちも、やがて同じ姿にされるというのです。

山の上で登場したモーセとエリヤは(4節)、旧約を代表する人物で、旧約の第1部である律法と第2部である預言書を表しています。すなわち旧約の全体です。彼らが話していた内容は、他の福音書では「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」でした(ルカ9:31)。イエス様の十字架の道は、旧約時代からの神様のご計画だったのです。イエス様を信じる私たちが、その後に従って自分の十字架を背負い、復活の栄光に達することも、旧約時代から、また天地創造の前からの神様のご計画だったのです(エフェソ1:4参照)。

弟子の一人ペトロは、「ここに仮小屋を建てましょう」と提案しました(5節)。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と感じたからです(同)。この山は、地上の世界から遥かに離れた、天国の世界を一時的に表しているので、十字架の苦しみが無いどころか、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われる天のエルサレムの世界(黙示録21:4)を、前もって体験させてもらったことになります。

地上の生涯は、嘆きや労苦に満ちています。誰でも苦しいことは嫌なもので、楽をしたいと願うものです。しかし、キリスト教の信仰があっても無くても、生きている限り、苦しみは避けられません。思いがけない災難に見舞われることもあり、地上では涙が絶えません。

けれども、そうした労苦は、辛いだけで終わるものではなく、その向こうには復活が待っていることを、イエス様は今日の場面で見せてくださったのです。

ゴールが見えないと、辛い中でも頑張ろうという気力は失せてしまうものです。しかし最終目的地が見えていると、辛いことでも案外、耐え忍ぶことができるものです。

パウロは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と語っています(ローマ8:18)。地上の人生で忍ぶ苦しみは、イエス様の十字架の姿にあやかることであり、将来に約束された天のエルサレムでの幸せな命は、イエス様の復活の姿にあやかることなのです(同6:5)。

雲の中から「これに聞け」という父なる神様の声が聞えました(7節)。「イエス様の後に従って、自分の十字架を背負って歩みなさい」という意味です。

一同は山を降りて、再び地上に戻りました(9節)。これからエルサレムの十字架へと向かう旅が始まります。私たちも礼拝を終えて、厳しい現実の中へ戻りますが、天のエルサレムを見失わずに、40日間の四旬節の旅を続けてまいりましょう。

<祈り>

神様、四旬節の恵みの季節を感謝いたします。イエス様は十字架の苦難の前に、復活の栄光の姿を一瞬垣間見させてくださいました。イエス様を信じ、その後に従って自分の十字架を背負う私たちも、厳しい現実世界の中で、天のエルサレムの輝きを見失わずに、信仰の旅を続けることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 355

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年2月21日(日) 主日礼拝

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<黙祷>

<招詞> 一ペトロ3:21

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 1

<聖書朗読> マルコによる福音書1:12-15

<祈祷>

あわれみ深い神様、あなたは失われたものを捜して救うために、主イエス・キリストをお遣わしになりました。
わたしたちはあなたから離れ、あなたの道からさまよい出ていたことを告白します。
傲慢な心で道を踏み外し、しみがあるのにきよいと思い、無に等しい者なのに偉い者であるかのように思い込んでいました。
わたしたちをあわれみ、罪をお赦しください。
わたしたちの救い主イエス・キリストによって、正しい道に連れ戻してください。(沈黙)
神様、あなたはいつの時代においても、人類との契約を新たにしてくださいます。あなたのみことばを聴くことができるよう、わたしたちの心を整えさせてください。今年も迎えた四旬節のこの季節、まことの回心を行うことができますように。

聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 333

<説教> 「荒れ野の誘惑」  牧師 黒田浩史

先週の水曜日からレント(四旬節)が始まりました。今年のイースター(復活祭)は4月4日ですが、イースターのお祝いを準備する40日間の季節です。元来はイースターに洗礼を受ける人のための準備期間として発達しました。既に洗礼を受けた人も、洗礼の恵みを思い起こし、イエス様の死と復活にあやかって、古い自分に死んで、新しく生まれ変わる機会としましょう。

今日のマルコ福音書の御言葉は、イエス様が40日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた場面です。この40日間が、四旬節の40日間のもとになっています。

イエス様が荒れ野に行かれたのは、霊に導かれてでした(12節)。この霊(=聖霊)は、直前の場面で、イエス様が洗礼を受けられた時に天から降って来たとあります(マルコ1:10)。聖霊は私たちの人生のあらゆるところで、私たちを導いてくれています。神様の恵みを受けて喜びに満たされるときも、試練に遭っているときも、聖霊は私たちを神様のもとへと導いているのです。

しかしこの世には、そのような私たちを苦しめようとする「悪魔」がいます。「サタン」とも呼ばれ、ヘブル語(旧約の言語)で「告発する者」、「敵」を意味し、人を神様から引き離そうとする存在です。ですから、ここでの誘惑とは、神様から離れるように誘うという意味です。

「主の祈り」でも「われらを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ」と祈りますが、「誘惑があっても、そこに陥ることのないように守ってください」という意味です。伝統的には、誘惑を受けることは罪になりませんが、誘惑を受け入れた結果、何らかの悪い行いを実際にしてしまうと罪になると理解されています。

誘惑の内容は、他の福音書では、所有欲、名誉欲、支配欲の三つの誘惑のことであると書かれています。モノが欲しい、人から褒められたい、人を支配したいという誘惑です(マタイ4:1-11、ルカ4:1-13参照)。

これらの誘惑を受けている間、イエス様は野獣と一緒におられました(13節)。この姿は、「狼は小羊と共に宿り…牛も熊も共に草をはみ」という旧約の預言を思わせます(イザヤ11:6-9参照)。天使に守ってもらえるならば、神様を信じる人に対して、何ものも危害を加えることはできない、という終末に実現するまことの平和が既に実現しているというのです。

あるいは、「主はあたたのために、御使い(=天使)に命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」ともあります(詩編91:3-15参照)。この世にいる限り、危険はまだ完全に去ってはいないが、しかし天使によって守られている、という姿です。

この言葉は、混乱した現代社会に生きる私たちにも当てはまります。不条理なことが起こったり、思いがけない災難に見舞われたりするので、「どうしてこんなことが起こるんだろう」と憤りたくなります。しかし、どんなに難しい現実の中にあっても、神様は天使を通して私たちを守ってくださっているのです。

さて、40日間の荒れ野の誘惑が終わり、イエス様はいよいよ宣教活動を始められました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)とのお言葉は、イエス様が語られた教えを要約したものだと言われています。「神の国」は神様のご支配のことですから(「国」は聖書の原語では「王の支配する領域」の意味」)、まさに厳しい現実の只中で、天使たちによる神様のご支配が始まっているというのです。

「悔い改め」は、聖書の原語で「向きを変える」という意味があり、心を神様の方へ向ける「回心」を意味します。四旬節は祈りに専念する季節ですから、日常の営みを停止し、一旦立ち止まって、進むべき方向を定めるのです。これまでの歩みがズレていたならば、方向を修正し、神様の方へ向けて方向転換をするのです。僅か1度のズレでも、1年経つと、随分違うところへ来てしまいます。この季節、一日一日を大切に過ごし、今年もまた一歩、救いの完成に近づいてまいりましょう。

<祈り>

神様、四旬節の恵みの季節を感謝いたします。イエス様が悪魔からの誘惑の中にあっても、天使に守られてまことの平和を保たれたように、私たちも厳しい現実の中にあっても、あなたに守られて、あなたに向かって信仰の旅路を進むことができますように。この季節、自分の生き方を振り返って、方向の修正をすることができますようお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 249

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年2月14日(日) 主日礼拝

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<黙祷>

<招詞> 一コリント10:31

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 68

<聖書朗読> マルコによる福音書1:40-45

<祈祷>

全能の神様、私たちは今、あなたを礼拝するために、あなたによってここに集められました。
とうといみことばの恵みにあずかる前に、私たちは犯した罪を認め、全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしたちは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
全能の神が、わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。
(沈黙)
神様、あなたはあなたを愛し、正しく誠実な心であなたのみことばを守る人と共にいてくださると約束されました。わたしたちをあなたが住んでくださる神殿となるにふさわしい者としてください。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 298

<説教> 「憐れみ深い神」  牧師 黒田浩史

イエス様が重い皮膚病の人を癒された場面です。この病気の名前は、現代でははっきり分かっていないので「重い皮膚病」と訳していますが、以前の訳で「らい病」となっていたように、社会から隔離され、家族にも会えないような、とても苦しい病気であったと言われています。旧約では、この病気の人は「汚れている」とされ、礼拝にも出ることができず、神様からも遠く、人との関係も絶たれていました(レビ13:45-46)。

どんな病気であっても、病気になったのは、その人のせいではありません(ヨハネ9:3参照)。皮膚病の場合には、外から病原菌のようなものが体に入り込んで病気になるように、人を苦しめる原因は人の外からやって来る、と聖書は語ります。最初の人類アダムは、罪を犯した結果、楽園から追放され、労苦して生きることになりました。しかしその原因は、蛇がエバを誘惑し、エバがアダムを(そそのか)したせいであったように、人を苦しめる要因は人の外からやって来る悪なのです(創世記3:1-24参照)。

イエス様は、そのように悪のせいで苦しむ私たち人間のところへやって来てくださり、悪を追い出してくださいます。

そのためには、まずは私たちの側から、イエス様の助けを固く信じて願い求めなくてはなりません。皮膚病の人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とイエス様に言いました(40節)。「御心ならば」の部分は、聖書の原語では「もし、あなたが望まれるなら」という言葉が使われています。これに対するイエス様のお答えの「よろしい。清くなれ」(41節)の「よろしい」の部分は、原語では「わたしは望む」という言葉です。

皮膚病の人は「おできになります」と言っていましたから、「イエス様は私を癒したいと望んでおられる」というイエス様の「望み」を固く信じたのです。そして実際、イエス様もその「望み」を持たれ、これを現実のものとされました。

私たちは、今の現実がどんなに難しく思われようとも、神様は私たちに必ずいちばん良いようにしてくださることを、固く信じなくてはなりません。信じる者には、信じたとおりに神様が物事を起こしてくださるのです(ルカ7:50参照)。

イエス様は癒しを行われる前に、この人を「深く憐れんだ」とあります(41節)。この言葉は原語では、「はらわたを痛める」というような激しい意味の言葉で、イエス様の憐みの心として、聖書でときどき使われています(マタイ20:34)。この人の苦しみを感じ、自分の胸(またはお腹)が痛むほどに、ご自身も苦しい思いをされたのです。

これは病気の人に対してだけでなく、外から悪が入り込んだせいで、人との関係や物事がうまく行かなくて苦しい思いをしている私たちに対してもイエス様は、「なんとかして助けなくては」と思っておられます。

先週の癒しの場面と同じように、イエス様は「手を差し伸べてその人に触れ」とあります(41節)。イエス様が病気の人に触れると、イエス様の力が流れ出て、その人を癒したことになります。さらには、当時はこの病気の人は、病気でない人に近づいたり、触れたりすることは禁じられていました。病気でない人が病気の人に触れることも、うつるのが怖いですから、ありえないことでした。イエス様がこの人に触れられたことは、人々が避けていたのと対照的に、イエス様はこの人を全面的に受け入れてくださったということです。

イエス様の力が流れ込み、この人の全人格がイエス様のもとに受け入れられる、という相互の行き来が起こり、イエス様と深く結ばれ、一体とされた姿を表しています。

難しい現実の中で苦しんでいる私たちにとっての最大の解決方法は、イエス様と一体にされることなのです。普段の生活の中でも、聖書を読んで心をイエス様の方へ向けることによって、イエス様と結ばれ、人との関係を回復していただいたり、難しい物事も不思議と神様によって良い方向へ導かれたりするよう願い求めましょう。

<祈り>

神様、イエス様は、悪によって壊れた私たちのあなたとの関係、人との関係が回復されることを深く望んでおられます。現実がどんなに難しくても、あなたが常にいちばん良い方向へと導いてくださっていることを固く信じ、あなたの御心を求める信仰をお与えください。あなたから救いの力をいただいて、この世にあって力強く生きることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 270

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年2月7日(日) 主日礼拝

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<黙祷>

<招詞> 一コリント9:16-17

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 67

<聖書朗読> マルコによる福音書1:29-39

<祈祷>

全能の神様、私たちは今、あなたを礼拝するために、あなたによってここに集められました。
とうといみことばの恵みにあずかる前に、私たちは犯した罪を認め、全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしたちは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
全能の神が、わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。
(沈黙)
神様、あなたは父としての愛によって、わたしたちの苦しみのもとに来てくださり、苦しみを御子の復活と一つに結んでくださいました。困難な中にあっても、わたしたちに清い心と強い力をお与えください。救いの希望の光に照らされて、苦しみの神秘を兄弟姉妹たちと共に分かち合うことができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 162

<説教> 「癒されて生きる」  牧師 黒田浩史

今日のマルコ福音書の場面も先週の続きで、先々週(マルコ1:14-20)、先週(同1:21-28)、そして今日の箇所は、イエス様の宣教活動が一日の場面に凝縮されています。先週は会堂すなわち公の場面でしたが、今日は個人の家庭が場面です。イエス様は、私たちの公私を問わず生活の全ての領域において、救いの御業を遂げてくださる方なのです。

最初の弟子となったペトロ(本名はシモン)とアンデレの家での出来事です。ペトロのしゅうとめが熱を出して寝ていましたが、イエス様は癒してくださいました。

「手を取って起こす」(31節)という動作は、イエス様の手が触れると、イエス様から神様の力が流れ込んで来る様子を表わしています。他の場面でも、12年間も病気で苦しんでいた女性が、イエス様の服に触れると、イエス様から力が流れ込んで来て、癒されました(マルコ5:27-30)。

先週は、悪霊を追い出す場面でした。今日は、病気を癒す場面です。これらは、現代人にとっては別々のことのように思われますが、イエス様の時代の人々にとっては、区別がありませんでした。どちらも神様と人とを引き離し、人と人とを引き離し、人を苦しめる悪の仕業なのです。イエス様は、悪によって苦しんでいる私たちを、造られた本来の姿に回復させるために地上に来られらのです。

ですから、「熱は去った」(31節)というのは、「悪霊が追い出された」(先週の場面)と同じことなのです。

さて、癒していただいたペトロのしゅうとめは、「一同をもてなし」ました(31節)。聖書の原語では、「仕える」という語が使われており、本来は「食卓で給仕をする」という意味ですが、へりくだって人に奉仕する姿を表わしています。イエス様は他の箇所で「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい」と仰せになりました。イエス様ご自身も「仕えられるためにではなく、仕えるために」、人々にご自身の「命を献げるために」来られたのでした(マルコ10:43-45)。

イエス様を信じる私たちも、救われたこの命を、自分のために生きるのではなく、他人や社会の役に立つように生きるのです。ペトロのしゅうとめが一同を「もてなした」すなわち「仕えた」という姿は、イエス様の弟子になっていった姿です。愛と奉仕に生きる人へと変えられた姿です。年を取って体が弱くなった人でも、人のため、社会のために祈ることはできます。

ところで、「悪霊はイエスを知っていた」(34節)とあるので、イエス様の正体すなわち神の子であられることを知っていたようです。しかし知っているだけでは、救いにはなりません。私たちも、聖書やキリスト教の知識があるだけでは、喜びや平和がないのと同じです。イエス様を信じ、この方と深い交わりや結びつきを持ってはじめて、救われた喜びに満たされるのです。イエス様も「わたしにつながっていなさい」と仰せになりました(ヨハネ15:4)。

イエス様ご自身も、天の父なる神様と深い交わりや結びつきを求めて、朝早くに祈られました(35節)。この日だけのことではなく、イエス様は毎朝こうされていたのでしょう。祈りの言葉は書いてないので、祈りは文言や内容というより、神様と二人きりの時間を過ごすことが大事だということです。イエス様から力が流れ込んで来て癒しが起こったように、私たちも祈りの時間を過ごすことにより、神様からの力が流れ込んで来て、今日一日を生きる元気をいただくのです。

イエス様の力をいただき、この身をイエス様そして人々に献げて生きる者になりましょう。

<祈り>

神様、御子イエス様は、わたしたちの生活のあらゆるところに救いの力を注いでくださいます。イエス様の弟子とされたわたしたちが、あなたの力に満たされて、救われたこの身をあなたと人とに献げて生きる者となれますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 285

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年1月31日(日) 主日礼拝

自宅礼拝資料はこちらです。週報はこちらです。ファイルが開けない場合は、下記の順序に従って礼拝してください。
説教の録音はこちらです(礼拝が終わってから掲載)。

<黙祷>

<招詞> 一コリント8:6

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 66

<聖書朗読> マルコによる福音書1:21-28

<祈祷>

全能の神様、私たちは今、あなたを礼拝するために、あなたによってここに集められました。
とうといみことばの恵みにあずかる前に、私たちは犯した罪を認め、全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしたちは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
全能の神が、わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。
(沈黙)
父なる神様、あなたは御子キリストにおいて、わたしたちにまことの知恵を教え、悪からの解放を与えてくださいます。わたしたちの信仰を力強く告白させてください。ことばと行いにおいて真実を宣べ伝え、あなたに寄り頼む人に対するまことの幸いを証ししていくことができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 177

<説教>

今日のマルコ福音書の場面は、先週の続きです。先週(マルコ1:14-20)と今週(同1:21-28)と来週(同1:29-39)の場面は、イエス様の宣教活動の典型的な一つのパターンを記しています。信じて弟子になる人が増え、イエス様が奇跡の御業を行われたり、御言葉を語られたりする場面です。
今日の場面では、イエス様は安息日に会堂で教えを語られました。ユダヤ教では土曜日に町ごとに建てられた会堂に行き、礼拝します。今日のキリスト教の礼拝のように聖書朗読の後に、説教に相当するような、教えを語る部分がありますが、これには特に資格は必要ないそうです。イエス様は一人の信仰者として教えを語られました。
しかしその教えは、「権威ある者として」の教えでした。というのも、律法学者たちが教えを語るだけなのに対し、イエス様は奇跡の御業を行われたからです。さらには、律法学者たちが一般論として律法の意味を解説していたのに対し、イエス様は神の恵みや祝福を説かれたので、聞いていた人々は「私にとっての神様の恵み」を感じることができた点でも、律法学者とは違っていました。
会堂には、汚れた霊に取りつかれた人がいました。「霊」は、聖書の原語で「風」や「息」を意味し、当時の人々にとって人間には捉えどころのない、人間の力を越えた力を意味していました。神様から来た力は「聖霊」であり、神様に反する悪い力を「汚れた霊」とか「悪霊」と呼んでいました。現代人は西洋の自然科学の思考の影響を大きく受けているので、自然科学で捉えることのできないこれらの霊について鈍感です。しかしいつの時代でも、これらの霊は存在し、悪霊は今も私たちを苦しめています。
今日の場面では、この霊がイエス様に対し「かまわないでくれ」(24節)と言いますが、原語では「あなたと私たちの間に何が(あるのか)」という言葉になっています。この霊は、イエス様との関係を絶とうとしていたようです。神様と人、人と人との関係を絶ち、そのコミュニケーションを絶つのが、悪霊の特徴の一つです。悪霊に対し鈍感になった現代人は、神様との関係が壊れ、人との関係もうまく行かなくなった原因が分かりません。しかし、イエス様の力によって、壊れた関係を回復していただけるのです。
悪霊は、人の外からやって来て、人を苦しめます。パウロはこれを人の内側に存在する罪という言葉で説明しています。「そういうこと(=悪)を行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:17)。人間は、神様の似姿に造られた良い存在であったのに、外から悪が入り込んで、神様の似姿を破壊し、醜い存在になってしまいました(創世記3章参照)。蛇に騙されて罪を犯した人間の姿は、人間自体は尊いものですが、外から悪の力が入り込んで来て、神様と人間との関係を壊し、人間同士の関係をも壊したことを表しています。神様が愛される尊い人間、すなわち私たち一人一人と、その中に宿る悪の力とは、別物であって、聖書ではこれらを分けて考えています。
ですから、イエス様は悪の力より遥かに強い力によって、人間から悪を追い出し、造られた本来の姿を回復してくださるのです。この救いは、イエス様の十字架を復活を信じるならば、誰にでも与えられます(使徒言行録10:43参照)。
普段の生活の中で、うまく行かないこと、とりわけ人間関係において失敗があったならば、これは自分の中に住んでいる罪や悪の働きであることに気付きましょう。そして、イエス様の力を信じて寄り頼み、悪を追い出していただき、神様との関係、人との関係を回復していただけるよう願い求めましょう。

<祈り>
神様、イエス様は汚れた霊に取りつかれて苦しんでいる人に心を留め、悪い霊を追い出して人間本来の尊い姿を回復してくださいました。イエス様を信じる私たちも、あなたとの親しい関係を取り戻し、毎日の生活の中で接する人たちとも、互いに尊敬し合い、助け合う関係を築いていくことができますようお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 354

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年1月24日(日) 主日礼拝

自宅礼拝資料はこちらです。週報はこちらです。ファイルが開けない場合は、下記の順序に従って礼拝してください。
説教の録音はこちらです(礼拝が終わってから掲載)。

<黙祷>

<招詞> 一コリント7:29-31

<讃詠> 545上

<主の祈り>

<讃美歌> 26

<聖書朗読> マルコによる福音書1:14-20

<祈祷>

全能の神様、私たちは今、あなたを礼拝するために、あなたによってここに集められました。
とうといみことばの恵みにあずかる前に、私たちは犯した罪を認め、全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしたちは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
全能の神が、わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。
(沈黙)
父なる神様、あなたは御子において御言葉と賜物を豊かに与えてくださいました。今すぐにも悔い改めて、心から福音を信じる必要を悟らせてください。わたしたちの生活によって、まだ信じようとしない人たちや、あなたから遠く離れている人たちに、唯一の救い主を告げ知らせることができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 122

<説教>

「全てを捨てて従う」  牧師 黒田浩史

今日からマルコ福音書の記載順に、イエス様のご生涯をたどりながら御言葉を聴いていきます。今日の場面は、イエス様の宣教活動の最初の最初です。
前半(14-15節)では、洗礼者ヨハネが捕えられ、人々の前から姿を消し、ヨハネと入れ替わるようにイエス様が登場されます。旧約の時代が終わり、「時は満ち」とあるように、いよいよイエス様の十字架と復活による救いの時代が始まったのです。
イエス様は「悔い改め」を呼び掛け、向きを変えて神様へと立ち返るようにと説かれます。生きる方向を定めることでもあります。この世の諸々の活動へ向いていた心を、キリスト者の最終目的地である天のエルサレムへと向けるのです(先週の説教を参照)。
そして、「神の国は近づいた」の「国」は、聖書の原語では王様の支配する領域の意味ですから、神様の支配、すなわちイエス様の十字架と復活による救いが始まったことを告げられます。
イエス様のこの短い言葉は、宣教活動を通して語られた教えの要約であると言われます。
そこで、後半(16-20節)の場面に移りますが、ここでイエス様に従った4人は、既にこの教えを聴いて知っていたのではないか、とも言われています。初対面なのにいきなりイエス様に従うのは、不自然に感じられるからです。
最初にイエス様の弟子となったこれらの4人は、漁師でした。イエス様の方から彼らに近づき、「わたしについて来なさい」と呼び掛けられました。一般には、弟子入りする際には、弟子になりたい人が師匠の元に行き、熱心さや技量を示して許可を得るのが普通かもしれません。しかしここでは、その逆です。イエス様すなわち神様が私たちを選ばれるのです。
その選びの基準は、人間的な能力や熱心さの度合いではありません。パウロも、初期の教会の信仰者たちのことを、「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」と語っています(一コリント1:26)。使徒たちは、「無学な普通の人」とも呼ばれています(使徒言行録4:13)。このことは旧約時代も同じで、イスラエルの民が選ばれたのも、「どの民よりも貧弱であった」が、彼らに対する主の愛のゆえに救いの御業をなされたのでした(申命記7:7-8参照)。
4人は、イエス様の方からの呼び掛けに対し、「悔い改めて、福音を信じる」という生き方に何か感じるものがあったのでしょう。「人間をとる漁師にしよう」と言われても、この時点では何のことか分からなかったに違いありません。それは、神様に「召し出されると、行き先も知らずに出発した」アブラハムに似ています(ヘブライ11:8)。
本人たちには分からないながらも、ここには召し出し(召命)の目的があります。人々が救われるために働くことです。キリスト教信仰は、自分だけが救わればいいとは考えません。漁師である彼らが仕事や故郷を捨てたのは、他者の救いのためでした。
他者の救いのためということで、旧約の関連箇所として、ヨナ書では悪に満ちていた都ニネベの人々について、神様は彼らが滅びるのを惜しいと思い、預言者ヨナを遣わされ、ヨナは悔い改めを呼び掛けました(ヨナ3-4章参照)。
このイエス様による召し出しと派遣は、緊急のものでもあります。パウロは「定められた時は迫っている」と語り、これはイエス様の「神の国は近づいた」と同じように、新しい時代が始まったことを告げています。「この世の有様は過ぎ去る」ので、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」(一コリント7:29-31、本日の招詞)。今日の4人の弟子たちのように捨てるべきものを脇に置いて、キリスト者の最終目的地である天のエルサレムを目指して進むのです。
私たちも、イエス様の「わたしについてきなさい」との呼び掛けに応え、救いの完成を目指して歩みましょう。

<祈り>
神様、最初の弟子たちがイエス様の呼び掛けに応えて従ったように、私たちも捨てるべきものを捨ててイエス様に従わせてください。自分の救いだけでなく、世の多くの人々の救いのためにそれぞれの場所へと遣わされ、まことの救いと喜びを伝えることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 257

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>

2021年1月17日(日) 主日礼拝

自宅礼拝資料はこちらです。週報はこちらです。ファイルが開けない場合は、下記の順序に従って礼拝してください。

<黙祷>

<招詞> 一コリント6:14

<讃詠> 545下

<主の祈り>

<讃美歌> 24

<聖書朗読> ヨハネによる福音書1:35-42

<祈祷>

全能の神様、私たちは今、あなたを礼拝するために、あなたによってここに集められました。
とうといみことばの恵みにあずかる前に、私たちは犯した罪を認め、全能の神と兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしたちは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
全能の神が、わたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。
(沈黙)
神様、あなたは教会と礼拝と兄弟姉妹の中に、あなたが確かにおられるしるしを現わしてくださいました。わたしたちがあなたの御言葉を空しくすることなく、あなたの救いのご計画を悟り、あなたの御国の使徒であり預言者となることができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書朗読と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 298

<説教>

「最初の弟子」  牧師 黒田浩史

今週の場面から、いよいよイエス様の宣教活動が始まります。四旬節と復活節の季節(2月17日~5月23日)に一時中断しますが、待降節の直前(11月21日)まで、イエス様のご生涯を辿りながら御言葉を聴いていきます。今年は主にマルコ福音書から、そしてときどきヨハネ福音書からも聴きます。
先週の場面では、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。ヨハネはイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼び(ヨハネ1:29)、今日の場面では、自分の二人の弟子をイエス様のもとへ送りました(35-36節)。
イエス様は二人に「何を求めているのか」と問われます(38節)。これはヨハネ福音書でのイエス様の第一声です。
この言葉により私たちも、心の奥底で本当に求めているものへと意識を向けさせられます。
「どこに泊まっておられるのですか」(同)との二人の答えは、イエス様の問いと噛み合ってないように見えるかもしれません。しかし「泊る」の語は、ヨハネ福音書のキーワードであり、「とどまる」とか「住む」とも訳され、イエス様と信じる私たちとの深い結び付きを表す言葉です。つまり、二人が本当に求めていたのは、イエス様と深い交わりを持ち、イエス様と一体になることだったのです(ヨハネ14:23、15:1-10参照)。
二人は「その日は、イエス様のもとに泊まった」(39節)のですが、これは単にイエス様が泊っておられた宿屋に一緒に宿泊しただけでなく、これから信じてイエス様と深く結ばれるようになることを意味しています。
イエス様は「来なさい」と言って、二人をご自身のもとに招かれました(39節)。私たちも、イエス様のこの招きに応えて、聖書の御言葉を通してイエス様との交わりに入れられ、信じてイエス様と深く結ばれるのです。
多くの人は、生きる目的が曖昧なまま何となく生きています。人生の大きな目標は定めず、その日暮らし、取りあえずその場その場で出来ることを行って生きています。
しかし、キリスト者にとっては、人生の最終目的地があります。それは天の故郷、天のエルサレムです(ヘブライ12:22、黙示録21:9-17参照)。信仰の祖先アブラハムも、まだ明確には分からないながらも、神様の呼び出しに応えて、この天の故郷を目指して旅に出発しました(創世記12:1-4、ヘブライ11:16参照)。
そこへ至る道は、アブラハムたちのような旧約時代の信仰者にはまだ明確ではありませんでした。しかし新約の時代になり、それはイエス様を信じることであるとはっきり示されたのです。イエス様を信じ、この方と深い交わりを持ち、一体とされることにより、地上の生涯を終えた後、ついに天の故郷へと招き入れられるのです。
イエス様と繋がる方法は簡単です。教会に集い、聖書の御言葉を聴き、信じて洗礼を受け、毎日の生活においても聖書を読んで祈り、少しでもその教えに従うことです。聖餐にあずかることによっても、イエス様が私たちの心と体の中に入って来てくださり、イエス様と一つに結ばれます。
パウロは「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と語っています(一コリント6:19)。この「神殿」は聖書の原語では単数形であり、一人の信仰者の体が一つの小さな神殿であるというよりは、キリストの体である教会を意味しています。信仰者は一人一人でバラバラに信仰しても、イエス様と一体にはなれません。教会というキリストの体、一つの体に結ばれることにより、イエス様と結ばれるのです。
私たちが心の奥で本当に求めているのは、イエス様と結ばれて一体となることです。教会に集えない人も、毎日聖書を読んで、天の故郷を目指して生活しましょう。

<祈り>
神様、今週から教会堂において、そして自宅において、それぞれの場所で礼拝を守ることになりました。どこにいても、聖霊によって御子イエス様をまことの救い主として信じ、イエス様と一つに結ばれて、父であるあなたとも一つに結ばれることができますように。聖書の御言葉を通して教えられた救いの道を通って、信仰の祖先アブラハム、そしてイエス様の弟子たちの後に続き、天の故郷を目指して歩むことができますようお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 333

<献金> (自宅礼拝の場合は、教会へささげる献金をご用意ください。)

<頌栄> 539

<黙祷>