2020年6月7日(日) 主日礼拝

三位一体の主日 A年 礼拝資料 

(住吉教会は6月7日から教会堂に集う礼拝を再開します。体調の悪い方、感染が心配な方は、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 二コリント13:13

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

(交読文はありません。)

<讃美歌> 66

<聖書> ヨハネによる福音書3:16-18

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>

父なる神様、信じるわたしたちに御子イエス・キリストの恵み、あなたの愛、聖霊の交わりを豊かに与えてくださいますことを心より感謝いたします。
しかしわたしたちは、あなたの聖霊の導きに心を留めず、御子イエス様の恵みに感謝せず、希望を失って生きていたことを御前に告白します。
全能の神様がわたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。(沈黙)
慈しみ深い神様、あなたは独り子イエス様と聖霊をお与えになり、永遠の命の救いを示してくださいました。わたしたちの信仰を強め、平和と希望の心を燃え上がらせてください。あなたの教会と一つに結ばれ、あなたの聖なる栄光の御名をほめたたえることができますように。
聖書と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを受け入れることができるよう、聖霊によってわたしたちの心を整えさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 181

「父、子、聖霊の神」  牧師黒田浩史

先週のペンテコステ(聖霊降臨祭)で復活節が終わりましたが、ペンテコステの次の主日(本日)は古くから「三位一体の主日」として、父、子、聖霊の神様の御名を讃える日として祝われてきました。四旬節から復活節にかけて、イエス様の受難と死、復活、聖霊降臨と順を追って御言葉を聴いてきましたが、ここでもう一度、これらの出来事を通して働かれた神様の大きな御業を振り返り、聖書全体に記されている父、子、聖霊の神様の御業に思いを向けるという意味があります。
三位一体という言葉は、聖書に直接は出て来なく、聖書より後の時代に教会が作った用語ですが、先週のマタイ福音書のイエス様の派遣の御言葉「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」にもあったように(マタイ28:19)、聖書の中に既に「父、子、聖霊」という一つのまとまりとして記されています(二コリント13:13、本日の招詞参照)。
今日のヨハネ福音書の御言葉には、直接そのようなまとまりとしての表現は出て来ませんが、父なる神様と御子イエス様との一体性が強調され(ヨハネ10:30)、父なる神様が聖霊を遣わしてくださる(同14:16)など、やはり三位一体の観点から書かれています。三位一体の神というと、難しく思われるかもしれませんが、実は聖書に記されていて、私たちのよく知っている神様のことなのです。
その神様が本当に願っていることは何かというと、旧約時代から数えると長い歴史があり多くの御業が記されていますが、今日の御言葉でイエス様は簡潔に仰せになっています。それは、信じる者が永遠の命を得ることです(16節)。
そのために御父なる神様は、その独り子を世に遣わしてくださいました(16節)。神であるのに人となられたという受肉の出来事(ヨハネ1:14参照)のことだけでなく、その御子が十字架に掛けられ苦しんで死ぬのを許されたほどに、世を愛されたのです。直前に「人の子(=イエス様)も上げられねばならない」とあるように(ヨハネ3:14)、十字架のことを仰せになっています(民数記21:9参照)。
ですから、父なる神様がその独り子をお与えになった(16節)というのは、父と子とは一体ですから、父なる神様はご自身を世にお与えになったという意味です。ご自身が十字架の上で苦しんで命を失うほどに、私たち人間を大事に思い、愛を示してくださったのです。一番大切な人のためには、自分の一番大切なものをも惜しまずに与えます。神様は、ご自分の命を私たちに与えてくださったのです。
しかしその続きに、「信じない者は既に裁かれている」(18節)ともあるので、救いというより、厳しい裁きを語っておられるように感じる人もおられるかもしれません。
けれどもイエス様は、「人々は光よりも闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)と言い、一人でも多くの人に光の方、すなわち神様の恵みのうちに生きる方を選んでほしいのです。光と闇を対照的に描くのは、ヨハネ福音書の特徴です(ヨハネ1:5等)。闇とは、当時の世界では、ローマ帝国による支配によって人々が苦しんでいることもありますし、現代でも、人と人との争い、自分さえ良けければいいという生き方、お金が全てだという人生観などのことです。これらの中に生きることが、既に裁きになっているというのです。ここでの「裁き」は、神様は恵みを与えようとしておられるのに、受け取る側が拒んでいるために、その恵みが届かない状態のことです。
しかし父なる神様は、旧約時代には裁きの神様であられたというイメージをお持ちの方もおられるかもしれません。けれども、旧約の中にも既に、神様の憐みや慈しみは至るところで語られています。例えば「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」とあります(出エジプト34:6-7)。
そのような神様、そしてイエス様を信じないことが罪なのです(ヨハネ16:9)。
しかし私たちは、聖霊なる神様の働きによって、イエス様を信じるようになりました。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」とあります(一コリント12:3)。「風は思いのままに吹く」と言われているように(ヨハネ3:8――聖書の原語では「風」と「霊」は同じ言葉)、私たちがイエス様を信じるようになったのは、自分の意思や決断でもありますが、聖霊の導きによるものです。
来週からまたマタイ福音書に戻りますが、聖書全体に記された父、子、聖霊の神様の働きに思いを馳せ、闇から光へと導かれたことに感謝しつつ、信仰生活を続けてまいりましょう。

<祈り>
神様、再び教会堂に集い、兄弟姉妹の皆さんと共に父、子、聖霊の神様の御名を讃美することができまして心から感謝いたします。あなたはご自身の命を与えてくださるほとに、私たち人間を愛してくださっています。その神様の愛と救いに御業について、聖書の御言葉から学び、私たちも闇から光へと導かれ、永遠の命の喜びを得ることができますように。日々の生活の中で、御言葉を思いめぐらせ、感謝に満たされて過ごすことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

<讃美歌> 312

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年5月31日(日) 聖霊降臨節礼拝

聖霊降臨の主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 使徒言行録2:1-4

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 26  (詩104篇)

<讃美歌> 24

<聖書> マタイによる福音書28:16-20

<祈り>
全能の神様、心を一つにして祈りを合わせる弟子たちの上に、イエス様のお約束どおり聖霊をお遣わしくださいました。
しかしわたしたちは、あなたの聖なる霊の働きに心を留めず、自分勝手に生き、互いに心が通わず、頑なな心で生きていたことを御前に告白します。
全能の神様がわたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように。(沈黙)
父なる神様、聖霊降臨の御業によって、あなたはすべての民をあなたの聖なる教会に集まてくださいます。地の果てに至るまで、聖霊の賜物を注いでください。教会の誕生によって始められた宣教の働きが、今も信じる私たちを通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。
聖書と説教のみことばを心に受け入れることができるよう、わたしたちの心を整えさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 177

<説教>
「この世への派遣」  牧師黒田浩史

イースター(復活祭)から数えて50日目、今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)を迎えました。イエス様が天に昇られてから10日目、弟子たちが集まり熱心に祈っていると、聖霊が降り、教会が誕生しました(使徒言行録2:1-4――本日の招詞)。
この聖霊は、今も教会の上に注がれています。教会堂は聖霊が満ちている場所であるとも言えます。しかし同時に、この聖霊は「一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)とあるように、信じて祈り求める一人一人の上に、すなわちこの私の上にも注がれているのです。
イエス様は聖霊の予告のお言葉の中で、「この霊があなたがたの内にいる」と仰せになっていました(ヨハネ14:17)。信じる私の心と体の中に、この聖霊なる神様が宿ってくださるのです。
今日のマタイ福音書28章の場面では、イエス様が弟子たちを全世界へと遣わされています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と仰せになりました(19-20節)。
長い言葉ですが、原文では「弟子にしなさい」が中心(主文)となっています。復活のイエス様の願いは、世界中の人たちがイエス様の弟子になることなのです。
どのようにして弟子になるかというと、①「行って」とあるように、まずは私たちが、まだ信じていない人たちの中へ行く、すなわちこの世の生活で証しすることが大事だといいます。そして②「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」とあるように、私たちの姿を見て、人々もクリスチャンになりたいと願い、洗礼を受けるのです。最後に③「教えなさい」とあるように、洗礼の有無というより、結局はクリスチャンの生き方として、イエス様の教えを守っているか否かが重要だということです。
イエス様は、使徒とされた私たちの証しを通して、世界中の人々がイエス様の教えを守って生きるようになることを望んでおられるのです。イエス様の教えということで、例えば「互いに愛し合いなさい」という教えを思い出します(ヨハネ13:34)。
さらには、聖霊に満たされてイエス様の教えに従って生きる姿として、使徒言行録2章、教会の誕生の場面では、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と言われています(使徒言行録2:3)。「舌」は、聖書の原語では「言葉」をも意味します。聖霊に満たされた使徒たちは、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります(同2:4)。
この背景には、昔、人々の罪のせいで言葉が混乱し、互いに言葉が通じなくなった出来事があります(創世記11:1-9、バベルの塔)。しかし今度は、聖霊によって互いに言葉が通じるようになり、心が通じ合うようになったというのです。言語や文化が違い、それゆえ価値観の違う人々であっても、聖霊によって互いに理解し合い、相手の立場に立って考えたり、気を遣ったりして生きる姿です。価値観や人生観は違っていても、同じ信仰者として、聖霊によって心を一つにすることができるのです。
この聖霊は実は、私たち人間が造られた時に既に与えられていました。神様は「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」とあります(創世記2:7)。聖書の原語では、「息」と「霊」は同じ言葉です。しかし人は、神様に背いて罪を犯し、この聖霊を失ってしまいました(創世記3章参照)。ペンテコステの出来事は、神様がこの聖霊を取り戻してくださったということです。神様の似姿に造られたのに(同1:26, 27)、罪によってその尊い姿を失った私たち人間が、再び神様の似姿を回復するのが聖霊の働きです。
復活のイエス様は信じる私たちに聖霊を注ぎ、今日から始まる一週間、それぞれの場所に遣してくださいます。聖霊に満たされた私たちは、少しでもイエス様のような姿に近づき(神の似姿)、この世でイエス様の教えを守り、一人でも多くの人たちがイエス様を信じるようになるよう願い求めてまいりましょう。

<祈り>
神様、およそ二千年前、地上に聖霊が降り、教会が誕生したおかげで、私たちも聖書の御言葉を聴き、イエス様を信じることができるようになりました。同じ聖霊を、信じる私たちの上に、さらに豊かに注いでください。この世のそれぞれの場所へと遣わされ、イエス様の教えに従って生活し、福音を証して生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

<讃美歌> 498

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年5月24日(日) 主日礼拝

復活節第7主日(主の昇天) 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> エフェソ1:19-21

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 13  (詩46篇)

<讃美歌> 6

<聖書> 使徒言行録1:1-11

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、復活のイエス様は天に上げられ、わたしたちに聖霊を遣わしてくださいました。
しかしわたしたちは、この世の力に寄り頼み、あなたの力である聖霊に信頼していなかったことを御前に告白します。
全能の神様がわたしたちをあわれみ、永遠の命に導いてくださいますように。(沈黙)
父なる神様、今日、主の昇天を記念して讃美をささげる、あなたの教会を喜びで満たしてください。御子キリストが天に上げられたおかげで、わたしたち人間も、あたたのもとに行くことができるようにされました。御子の体の枝とされたわたしたちが、頭であるキリストの後に従うことにより、ついに天に上げられることを、切に願い求めて生きることができますように。
わたしたちの心に聖霊を注いでください。聖書と説教のみことばを深く理解することができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 159

<説教>
「主の昇天」  牧師黒田浩史

4月12日のイースター(復活祭)から始まった復活節も、50日目である来週の5月31日、ペンテコステ(聖霊降臨祭)で終わります。今日は、主の復活から40日目の出来事である主の昇天の御言葉を聴いています。イースターから数えて40日目は、復活節第6木曜日(先週の木曜日)ですが、現代では多くの教会が、今日の復活節第7主日に主の昇天を祝っています。
イエス様は十字架に掛けられる前、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と仰せになっていました(ヨハネ16:7)。なぜなら、イエス様が天に昇られる代わりに、地上に聖霊が降り、この聖霊のおかげで、復活のイエス様は信じる人といつも共にいてくださるようになったからです。
復活の後、イエス様が天に昇られる場面は、ルカ福音書の最後の場面(ルカ24:51)と使徒言行録の最初の場面(使徒言行録1:9)に記されています。使徒言行録はルカ福音書の続編なので、これら二つを書いたルカは、イエス様の昇天をこうして強調しています。ガリラヤからエルサレムに向かうイエス様の旅は、十字架と復活で終わるものではなく、天に至る旅だったのです。イエス様に従って一緒に旅をしてきた弟子たちも、天に至る旅に参加したのです。その旅は、イエス様の昇天で終わったわけではなく、使徒言行録のこの後の場面へと続いています。地上に聖霊が降って教会が誕生し、教会の一員として宣教の働きを続け、やがて遂には天にまで至るという旅なのです。
私たちも人生の途上でイエス様と出会い、この旅に加わりました。今は旅の途上です。やがて、イエス様のように天に上げられる日が来ます。それまでは、使徒言行録の弟子(使徒)たちのように主を証しして生きるのです。
弟子たちは、この旅がまだ長く続くと思ってはいなかったようで、旅の終わりは「この時ですか」と尋ねていました(6節)。「イスラエルのために国を建て直す」とあるように、当時はローマに占領されていたユダヤの国に、再び王様が立てられて、国が独立するようなことを考えていたようです。
しかしイエス様は、「父の約束されたものを待ちなさい」と仰せになり(4節)、弟子たちの上に聖霊が降ることを予告されました(8節)。教会の誕生(使徒言行録2:1-4)の予告でもありますが、信じる人が洗礼を受けて聖霊を受けることでもあります。「聖霊による洗礼を授けられる」(5節)とは、キリスト教の洗礼を受けて、聖霊に満たされることを意味しています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とあるように(8節)、聖霊は神様の力です。この力は、「わたしの証人となる」とあるように(同)、イエス様を証しするための力です。洗礼を受けてクリスチャンとなった人は、イエス様の教え(「互いに愛しないなさい」など)を行うことによって、イエス様を証しするのです。
それは、当時の弟子たちが考えていた「イスラエルのための国の建て直し」ではなく、新しいイスラエルである教会の建設です。教会の誕生の後、大勢の人々が洗礼を受けて教会に加わり、クリスチャンの数が増えていくことです(使徒言行録2:41)。
さらには、信じた人は聖霊を受けるので、神様の力によって生きるようになります。神様の力によって生きるのと反対の姿が、「金や銀」すなわちこの世の力によって生きることです。聖霊に満たされたペトロとヨハネは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って、足の不自由な人を癒しました(使徒言行録3:1-10参照)。私たちは同じような奇跡の業はできなくても、神様からの力によって、隣人を愛したり、人を赦したり、辛いことを忍耐したりすることができるのです。
弟子たちは、いつまでも「天を見上げて立っている」のを止めて(11節)、教会の誕生そして建設のために、前へ向かって歩んでいくことにしました。まず最初にしたことは、熱心に祈ることでした(使徒言行録1:14)。私たちも聖霊を豊かに受けることを願い、来週のペンテコステ(聖霊降臨祭)に向けて、熱心に祈りをささげつつ、この週を過ごしましょう。

<祈り>
神様、復活のイエス様は天に上げられましたが、信じる者に聖霊を遣わしてくださいました。私たちも信じて洗礼を受け、聖霊に満たされて、新しいイスラエルの一員として、御国の建設のために働くことができますように。日々の生活の中で主の教えに従うことによって、主を証しして生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 361

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年5月17日(日) 主日礼拝

復活節第6主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 一ペトロ3:17-18

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 17  (詩65篇)

<讃美歌> 68

<聖書> ヨハネによる福音書14:15-21

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、復活のイエス様が、あなたの聖霊の働きによって、いつどこにいても共にいてくださることを感謝いたします。
しかしわたしたちは、聖霊を見ようとも知ろうともしないこの世の人々のように、あなたの教えから離れ、自分勝手に生きていたことを御前に告白します。
全能の神様がわたしたちをあわれみ、永遠の命に導いてくださいますように。(沈黙)
神様、あなたの御子キリストは、わたしたちの罪のために死なれましたが、永遠の命に復活させてくださいました。御子において贖われたわたしたちを、真理の霊によって強めてください。あなたからまことの喜びを与えられて、心に抱いている希望をいつでも人々に弁明できるよう備えていることができますように。
わたしたちの心に聖霊を注いでください。あなたのみことばを素直に心に受け入れることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 301

<説教>
「聖霊の約束」  牧師黒田浩史

復活節も今日で第6週目となりました。先々週から3回にわたり「聖霊により信じる人といつも共におられるイエス様」というテーマで、ヨハネ福音書から聴いていますが、今日はその最終回、イエス様が聖霊の約束をされる御言葉です。再来週(5月31日)の聖霊降臨祭へと繋がっています。
ヨハネ福音書13章から17章は、イエス様が捕らえられる直前の場面です。これから十字架に掛かり、三日目に復活され、40日目には天に昇られます。人となられたイエス様は弟子たちから離れ去ってしまわれますが、「わたしが去って行くのは、あながたがのためになる」と仰せになりました(ヨハネ16:7)。なぜなら、その代わりに聖霊が降り、信じる人はいつどこにいても、復活のイエス様が共におられるようになるからです。
その聖霊のことを「別の弁護者」と呼んでおられます。「別の」とは、イエス様ご自身がまずは最初の「弁護者」と呼ばれているためです(一ヨハネ2:1)。原語では「そばにいて助けてくれる者」、「一緒にいて支えてくださる方」という意味で、裁判の時の弁護人のような役割を果たす人を指す言葉です。聖霊は神様の力ですから、信じる人の中に神様の力が働いて、いつどこにいても信仰を持って力強く生きることができます。
しかも、単に力が働くというだけでなく、聖霊なる神様が信じる人の内に宿ってくださるというのです(17節)。人間の中に神様が宿るというのは、不思議なことです。ですがそれは、聖霊なる神様だけでなく、父なる神様と御子イエス様も、信じる人のところに行き、「一緒に住む」と言われています(23節)。旧約時代は、神様は人間から遥かに遠いところにおられると考えられていました。創造主である神様と、被造物にすぎない人間では、永遠の隔たりがあるとも言えます。しかし聖霊の働きにより、信じる人は父、子、聖霊の神様と一つに結び合わされるのです。「聖霊があなたがたの内にいる」(17節)の「いる」の原語は、ヨハネ福音書に特徴的な言葉で、深い結びつきを表す言葉です(ヨハネ6:56等)。
パウロも「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語っています(ガラテヤ2:20)。信じて洗礼を受けることも、キリストと深く結ばれることです。地上の生涯で経験する苦しみは、私たち一人一人の内に住んでおられるキリストが苦しんでおられるのであり、その私たちはやがてキリストと同じように復活させられるのです(ローマ6:3-5参照)。
しかし、信じて栄光に入れられる私たちとは対照的に、この世すなわち信じない人たちについては、「世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」と言われています(17節)。ヨハネ福音書が書かれた当時、キリスト者を迫害していたユダヤ教の人たちのことですが、現代でも福音を受け入れないこの世の人たちのことです。
「弁護者」と呼ばれていた聖霊は、信じる私たちを助けてくれる方ですが、信じないこの世の人たちに対しては、厳しい方となります。イエス様は罪のない方なのに、この世の裁判において有罪とされ、十字架に掛けられました。しかし「弁護者」である聖霊は、この裁判の判決を覆し、イエス様を無罪とし、この世を裁くことになります。「その方(弁護者=聖霊)が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります(ヨハネ16:8)。「罪」とはイエス様を信じないことであり、「裁き」とはこの世の支配者が断罪されることだからです(ヨハネ16:11)。
しかし信じる人は、イエス様の掟を守る人です(21節)。その掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟です(ヨハネ13:34)。信じる人の内には、イエス様も一緒に住んでおられるので、イエス様のように愛する人とされます。これも聖霊の働きのおかげです。
私たちは土の塵から造られたにすぎない人間ですが(創世記2:7参照)、聖霊を受けその力に満たされて、いつどこにいてもイエス様を信じ、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

<祈り>
神様、復活のイエス様は、信じる者に聖霊を約束してくださいました。聖霊の力に満たされ、私たちの内にイエス様が住んでくださり、その十字架の姿に結び合わされて、その復活の栄光にもあずかることができますように。聖霊降臨祭に向けて、聖霊を受け取るために、身も心もふさわしく整えさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 333

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年5月10日(日) 主日礼拝

復活節第5主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 一ペトロ2:9

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 33  (詩146篇)

<讃美歌> 24

<聖書> ヨハネによる福音書14:1-12

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、御子イエス様の復活によって、わたしたちに新しい希望を与えてくださいましたことを感謝いたします。
しかし、わたしたちはこの世の道を歩み、あなたの教えから遠ざかっていたことを御前に告白します。
あわれみ深い神様、わたしたちをお赦しください。(沈黙)
父なる神様、あなたは贖い主イエス様を通してご自身をわたしたちに示してくださいました。主は人々によって退けられましたが、あなたによって尊い命の石となられました。わたしたちもこの方を崇めることによって、王の系統を引く祭司、聖なる国民、あなたの栄光が輝く神殿となることができますように。
わたしたちの心に聖霊を注ぎ、命のみことばを心に受け入れることができるように整えてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 298

<説教>
「道、真理、命」  牧師黒田浩史

今日は復活節第5主日です。先週から3回にわたり「聖霊により信じる人といつも共におられるイエス様」をテーマとして、ヨハネ福音書から聴いています。自宅礼拝も、まだ暫く続くことになりましたが、家に一人でいても、イエス様が共におられることを思い起こし、この機会を利用して信仰を深めていきたいものです。
その信仰とは、イエス様が「わたしを信じなさい」(1節)と言われている信仰ですが、「その方に信頼を置き、自分を委ねる」という意味で言われています。なぜ信頼が必要かと言えば、「心を騒がせるな」とあるように、私たちの心は不安や心配でいっぱいだからです。「騒がせる」の原語は、「湖が波立つ」というような意味で、何をしても心が落ち着かないような状態を表します。実はイエス様ご自身も、これからいよいよ十字架に向かわれるという時、心を騒がせられました(ヨハネ12:27, 13:21参照)。しかしそのイエス様は、十字架を通って復活の命に到達されました。この方に信頼し、身を委ねることにより、私たちも心騒ぐ状態から、まことの平安に満ちた復活の命に到達することができるのです。
ですから、「わたしは道である」(6節)と仰せになる「道」とは、十字架を通って復活に至るイエス様のご生涯のことです。信じる私たちも、地上の生涯でさまざまな苦しみを体験し、決して平安な毎日ではなく、心騒ぐこともありますが、イエス様の後に従うならば、復活の喜びに入れられるのです。イエス様は十字架の苦しみを通って「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」とあります(ヘブライ10:20)。この道を通って天国に入るのです。ガリラヤからエルサレムへの旅は、天にまで至る旅であった、と以前にも申しました(ルカ24:13-35参照)。
「真理」や「命」(6節)も言葉は違いますが、イエス様のことを言っています。「真理」は「人間としてのまことの生き方」という意味にも取れますから、まさに友のために命を捨てたイエス様の生き様です(ヨハネ15:13参照)。「一粒の麦は、地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)とも言われていますので、死ぬことが命、という聖書の逆説的な教えです。道、真理、命は、こうしてイエス様のご生涯の中で繋がっています。
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)とあるように、イエス様のような生き方、すなわち友(他者)のために生きるのでなければ、旅の最終地点である天国には行けないのです。
しかしこれは難しいことではなく、イエス様に信頼する人ならば、誰でも歩むことのできる道です。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(2節)とは、信じさえすれば誰でも救われるという意味で、恵みによる救いのことです。
旧約時代には王や祭司などの特別に選ばれた人が神様に近いと考えられていましたが、新約時代になり、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(一ペトロ2:9、本日の招詞参照)とあるように、イエス様を信じるならば、誰でも王や祭司のように特別に選ばれた人とされるのです。祭司、特に大祭司は、神殿の奥にある至聖所という場所に入ることができます。神ご自身が臨在されると考えられていた場所です。普通の人でもキリスト者になれば、神ご自身がおられる天のエルサレムに住むことができるのです(黙示録21:22-27参照)。
ですから、イエス様を信じる者は、イエス様より「もっと大きな業を行うようになる」(12節)とあります。イエス様がなさった奇跡より大きな奇跡を行う、という比較の話ではなく、罪人に過ぎない人間が、十字架の恵みにより罪を赦され、イエス様と同じ道を歩んで天のエルサレムに住むようになるという神様の偉大な業のことです。
これらは聖霊の働きです。5月31日のペンテコステ(聖霊降臨祭)に向かって、聖霊を願い求めて歩んでまいりましょう。

<祈り>
神様、復活のイエス様は、信じる者に天のエルサレムに至る道を開いてくださいました。心騒ぐ毎日の生活の中にあっても、イエス様に信頼して身を委ね、イエス様の生き方に倣って歩むことができますようお導きください。
新型コロナウイルスの禍が一日も早く過ぎ去り、また再び共に教会堂に集うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 356

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年5月3日(日) 主日礼拝

日曜学校日 復活節第4主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 一ペトロ2:22-24

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 6  (詩23篇)

<讃美歌> 76

<聖書> ヨハネによる福音書10:1-10

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、あなたは御子イエス様の復活によって世界にまことの喜びを与えてくださいました。
しかし、わたしたちはこの世の声に心を奪われ、まことの羊飼いイエス様の御声に聴き従っていなかったことを御前に告白します。
あわれみ深い神様、わたしたちをお赦しください。(沈黙)
わたしたちの父なる神様、あなたは御子イエス様によって救いの門を開き、この世に聖霊を送ってくださいました。
この世の誘惑のただ中にあるわたしたちが、良い羊飼いキリストと深く結びつき、その御声に聴き従い、豊かな命を受けることができますように。
わたしたちの心に聖霊を注ぎ、あなたのみことばを受け入れることができるように整えてください。
また、教会に連なる子供たちが、この日、羊飼いキリストから豊かな祝福を受け、あなたの子どもとして成長することができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 122

<説教>
「羊飼いキリスト」  牧師黒田浩史

5月の第1の主日は、日本キリスト教会の日曜学校日です。毎年、子供たちのことを覚えて礼拝をささげています。数年前から、礼拝の中で日曜学校の子供たちを紹介し、祝福の祈りをささげてきました。今日は子供たちも共に集えませんが、信仰を継承し、キリスト者として育っていくようにと祈りを合わせつつ、この礼拝をささげましょう。
さて、今日は復活節も4週目となり、今日から3回にわたり「聖霊により信じる人といつも共におられるイエス様」をテーマとして、ヨハネ福音書から聴いていきます。復活節第2と第3主日は、共に集まるところに復活のイエス様もおられることがテーマでしたが、共に集まれない状況の中では、一人でいてもイエス様が共におられる、という御言葉は大変心強いです。
これは聖霊の働きのおかげです。聖霊の働きには二つの側面があり、教会という人々の集まり(組織)の上に働く側面(使徒言行録)と、信じる人とイエス様とが直接深い交わりを持つように働く側面(ヨハネ14:15-26など)とがあります。聖霊を受けるためには、もちろん教会も必要です。教会が誕生したとき、ペトロの説教を聴いて悔い改めた人たちが、洗礼を受けて仲間(教会)に加わりました(使徒言行録2:41)。
しかし、教会に繋がっている私たちは、家に帰って一人でいても、聖霊の働きによりイエス様が共にいてくださいます。
今日の御言葉は、そのイエス様のことを「羊飼い」に、信じる私たちを「羊」にたとえています。当時のこの地方の羊飼いは、50匹から100匹くらいの羊を飼っていて、1匹ずつ名前を呼んで、水や草のあるところへ連れて行ったそうです。
羊に求められていることは、羊飼いを「知る」(4節)ことと、その声を「聞き分ける」(3節)ことです。「知る」は聖書の言葉では、夫婦の交わりをも表すように(創世記4:1)、深い交わりや結びつきを意味します。「聞き分ける」は、御言葉に「聞き従う」ことを意味します。
その例として、今日の箇所の直前に、イエス様が生まれつきの盲人をいやされた場面があります(ヨハネ9:1-41)。この人はイエス様と出会い、深い交わりを与えられ(知る)、イエス様こそ救い主だと信じました(聞き分ける)。しかし、そのために会堂を追放されてしまいました(ヨハネ9:34)。当時は、村八分のような社会的制裁をも意味していました。イエス様の御言葉に聴き従い、深い交わりを持つことは、当時は命懸けであったのです。それは、生き方全体が変わることでした。
そのイエス様は羊飼いとして、私たちにまことの命を与えてくださいます(10節)。旧約では、王様などの国の指導者が、羊飼い(牧者)と呼ばれています(エゼキエル34:1-31)。律法の先生のように教えを説くだけでなく、人々の実際の生活を豊かにし、命を守る役目の人のことです。イエス様こそ、この世における私たちの命(生活)を支え、この世の生涯が終わってからも、永遠の命を与えてくださる方です。
そのイエス様はまた、御自分のことを「門」にたとえられ、「わたしを通って入る者は救われる」と仰せになりました(10節)。教会に集って聖霊を受け、家に帰ってからも聖霊の働きによって、イエス様と共に生きる人のことです。日々の生活の中でも、神様に感謝し、その教えに従って生きようとする人です。
共に集えないこんなときこそ、聖霊によって共におられるイエス様を強く意識して、ペンテコステ(聖霊降臨祭)への備えをし、どんなことがあってもイエス様と共に生きていく信仰を、さらに強めていただきましょう。

<祈り>
神様、復活のイエス様は、聖霊の働きによって信じる私たちといつも共にいてくださり、まことの羊飼いとして、この世の命を支え、永遠の命へと導いてくださいます。共に集えずに自宅であなたを礼拝する私たちを顧みてください。いつどこにいてもイエス様と一緒にいて、その御声に聴き従って生きることができますように。
新型コロナウイルスの禍から私たちを救い、禍にもまさる恵みをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 354

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年4月26日(日) 主日礼拝

復活節第3主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 一ペトロ1:21

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 4  (詩16篇)

<讃美歌> 68

<聖書> ルカによる福音書24:13-35

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、あなたは御子イエス様の復活によりこの世にまことの喜びを与えてくださいました。
しかし、わたしたちはこの世の価値観や常識によって信仰の目が遮られ、自分勝手に生きていたことを御前に告白します。
あわれみ深い神様、わたしたちをお赦しください。(沈黙)
神様、御子の復活を祝うこの喜ばしい季節、地上を旅するあなたの教会を御元に集め、あなたの聖霊をお与えください。御言葉の恵みにあずかることにより、十字架に掛けられたキリストを思い起こし、わたしたちの心の目が開かれて、聖書の御言葉を深く悟ることができますように。
あなたの聖霊の力によって、わたしたちの心を開いてください。
聖書と説教を通して語られるあなたのみことばを、喜びのうちに受け入れることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 151

<説教>
「目が開かれる」  牧師黒田浩史

今日の福音書の御言葉は、先週の御言葉の前半と同じく、イエス様が復活された日の夕方の場面です。
「十一人とその仲間」の弟子たちは、エルサレムで一つの家の中に集まっていました。しかし、別の二人の弟子は、エルサレムから離れて故郷へ帰ろうとしていました。そこへ復活のイエス様がお姿を現わし、二人をエルサレムに連れ戻すことになった、というのが今日の場面です。
エルサレムから離れることには、二つの否定的な意味があります。一つは、皆が集まっているところに復活のイエス様もおられるので、イエス様から離れ、信じることも難しくなってしまうということです。先週の場面でも、弟子のトマスは、最後には皆が集まっているところへ来たので、信じることができました。
もう一つの否定的な意味は、せっかくイエス様のガリラヤからエルサレムへの旅に加わったのに、その旅から脱落してしまうことです。この旅は、エルサレムの十字架と復活で終わるものではなく、イエス様が復活後40日目に天に昇られたように、イエス様と一緒に天にまで至る旅であったのです。ルカ福音書は、その末尾でイエス様の昇天の場面を記し(ルカ24:50-53)、その続編である使徒言行録1章においても、イエス様の昇天の場面を繰り返し記しています。信じる私たちも、天にまで至る旅をイエス様と一緒に歩んでいるのです。その旅の姿は、使徒言行録の中に描かれています。
その旅は、イエス様と同じように、苦しみを経て栄光に入る旅です(26節)。聖書全体(旧約)にわたり、ご自分について書いてある箇所を説明してくださいました。例えば、イザヤ書の「主の僕の歌」と言われる箇所には、人々のために尽くして働いた人であるのに、「軽蔑され、人々に見捨てられ」、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」ほどに苦しめられ、「屠り場に引かれる小羊のように」殺されたとあり、イエス様の十字架の姿が前もって記されていたと言われています(イザヤ52:13~53:12参照)。
そのイエス様を信じる私たちも、この世では苦難を経験します。しかし、イエス様の復活を力強く証ししたペトロは、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。あなたは命に至る道をわたしに示してくださる」と説きました(使徒言行録2:25、28―詩編16:8-11の引用)。どんなことがあっても、復活のイエス様が私たちと共におられることを思い起こしましょう。
エルサレムから離れて行こうとしていた今日の二人の弟子は、イエス様がパンを裂いた姿を見て、イエス様だと分かり、エルサレムに引き返しました。これは聖餐の場面を思い起こさせます。この世の価値観や常識によって「目が遮られて」いて(17節)、「心が鈍く」(25節)なっている私たちも、主日礼拝で御言葉と聖餐にあずかることにより、霊的な目を開かされて(ルカ24:45)、イエス様が共におられることを思い起こし、天に向かう旅路へ連れ戻されるのです。
今は残念ならが共に集い、聖餐にあずかることはできませんが、家にいても、どこにいても、聖霊によって復活のイエス様がいつも共にいてくださるよう、「主よ、私たちのところにとどまってください」(29節参照)と心を合わせて祈り求めましょう。

<祈り>
神様、復活のイエス様は、信じる私たちを天に至る信仰の旅へと招いてくださいました。この世の価値観や常識によって信仰の目を遮られている私たちが、御言葉と聖餐によって再び聖書の生き方に立ち返り、復活のイエス様を証して生きることができるようお導きください。一日も早く再び教会堂に集い、信じる兄弟姉妹たちと共に御言葉と聖餐にあずかることができますように。
新型コロナウイルスの感染によって苦しむあらゆる人たちを顧み、この禍からお救いください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 156

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年4月19日(日) 主日礼拝

復活節第2主日 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌うか、または歌詞を読みます。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> 一ペトロ1:3-4

<讃詠> 545上

<主の祈り> (讃美歌564番参照)

<交読文> 27  (詩118篇)

<讃美歌> 147

<聖書> ヨハネによる福音書20:19-31

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>

全能の神様、あなたは御子イエスを死者の中から復活させ、罪と死の力を打ち砕かれました。
しかし、わたしたちは古い自分に囚われ、罪と死に繋がれ、隣人よりも自分を大事にして生きていたことを、御前に告白します。
あわれみ深い神様、わたしたちをお赦しください。(沈黙)
わたしたちの主なる神様、あなたは大きな憐れみによって、御子の復活を通してわたしたちが新しく生まれさせ、生きる希望を与えてくださいました。
使徒たちの証しを通して、復活を信じるわたしたちの信仰を増してください。御子のお姿を見なくてもこの方に従い、新しい命の実りを受け取ることができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書の御言葉と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを、深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 151

「見ないで信じる」  牧師黒田浩史

今日の福音書の御言葉は、イエス様が復活された日の夕方、そして八日後の夕方の場面です。八日後は、復活節第2主日に相当しますので、毎年この箇所から聴いています。復活節第2と第3の主日は、イエス様の復活の直後の場面、第4から第6の主日は、目に見えないが共にいてくださる復活のイエス様がテーマとなっています。
弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっていました。そこへイエス様の方からやって来て、平和を与えてくださいました。人生においてうまく行かないことがあっても、イエス様の方から私たちのところへやって来てくださるのです。教会に来ると、この世が与えてはくれない心の平安があります(ヨハネ14:27参照)。そして、家に帰っても、いつどこにいても復活のイエス様は、私たちと共にいてくださいます(復活節第3から第6主日のテーマ)。
イエス様は弟子たちに赦しを勧めますが、それ以前に、イエス様が弟子たちを赦してくださいました。裏切って逃げてしまった弟子たちを咎めることはせず、在りのままで受け入れてくださったのです。神様は私たちが悔い改めたり反省したりする前から、一方的に受け入れ、過ちを見逃し、無かったことにしてくださいます。
赦された弟子たちは、イエス様によって派遣され、赦しを宣べ伝えていきました。ここで聖霊を受けている姿は、50日後に聖霊が降って教会が誕生する姿を前もって表しています。
ところで、弟子のトマスは、このとき一緒にいなかったために、イエス様の復活を信じようとしませんでした。「最後まで従います」というようなことを言っていたのに(ヨハネ11:16)、イエス様を裏切ってしまったことで絶望し、自己嫌悪に陥っていたのかもしれません。
しかし、八日目(現代の言い方だと次の日曜日)に、今度はみんなと一緒にいたので、復活のイエス様にお会いし、信じることができました。みんなが集まっているところ、すなわち教会に来れば、信じることができるということです。現在、私たちは共に集まることができない状態ですが、「教会」はギリシア語で「エクレシア」すなわち「集められた」という意味ですから、教会の本質は集まることにあります。一日も早く教会の本来の姿が回復されるよう祈り求めましょう。
トマスは復活のイエス様にお会いして、そのお姿を見たので信じたのですが、イエス様は「見ないのに信じる者は、幸いである」と仰せになりました。これは、トマスのことというより、現代の私たちを含めて、後に信じていくことになる人々のことを言っています。
福音書が書かれたのは、これを読む(またはその御言葉の朗読を聴く)人たちが信じるようになるためである、と書かれています(20:31)。「信じて命を受けるため」とは、信じて洗礼を受け、教会の一員とされ、永遠の命に生きるようにされることです。
私たちも、復活のイエス様を目で見ることができませんが、いつどこにいても聖霊によって一緒にいてくださるイエス様を信じ、毎日の生活の中でも復活の命に生きる者とされましょう。

<祈り>
神様、イエス様の復活を感謝します。私たちの教会は先週から共に集うことができなくなりましたが、聖霊によっていつどこにいても復活のイエス様が共にいてくださり、まことの平安と復活の命を与えてくださることを信じます。弟子たちのようにイエス様の復活を心から喜び、罪を赦され、新しくされてそれぞれの場所へと遣わされますように。一日も早く再び教会堂に集い、信じる兄弟姉妹たちと共にあなたを礼拝することができますように。
新型コロナウイルスの感染に苦しむ患者の方々、治療や看護に携わる医療関係の方々、この災いによって被害を受けておられる方々を顧みてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 150

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>

2020年4月12日(日) 復活節礼拝

復活の主日 A年 自宅礼拝 

(住吉教会の皆さんは、下記の順序で各自、自宅にて礼拝を行ってください。讃美歌は、歌える範囲で歌います。 録音はありません。 )

郵送版(PDFファイル)  週報(PDFファイル) (クリックすると開きます。お使いの機器で開けない場合は、下記の順序で礼拝してください。)

<黙祷>

<招詞> ローマ6:4-5

<讃美歌> 154

<主の祈り>

<交読文> 23  (詩118篇)

<讃美歌> 146

<聖書> マタイによる福音書28:1-10

(聖書朗読箇所は、「主日と祝祭日の聖書日課」にもとづいています。)

<祈り>
全能の神様、あなたは御子イエスを死者の中から復活させ、罪と死の力を打ち砕かれました。
わたしたちは疑いと恐れに捕らわれ、死に至る道に繋がれていました。
苦しみや悩みを抱えている人たちから目をそらし、自分勝手に生きていたことを御前に告白します。
あわれみ深い神様、わたしたちをお赦しください。(沈黙)
神様、あなたはこの聖なる日に、主の復活の栄光によって光を与えてくださいました。神の子とする霊によってあなたの家族とされ、あなたの子どもとされたわたしたちが、身も心も新たにされて、あなたに仕えることができますように。
聖霊の光によってわたしたちの心を照らしてください。
聖書の御言葉と説教を通してあなたがお語りになる真理のみことばを、深く悟ることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 151

<説教>
「新しい人生」  牧師黒田浩史

皆さん、イースター、主の復活、おめでとうございます!
今年のイースターは、新型コロナウイルス感染拡大予防のため、誠に残念なことですが、教会堂での礼拝は中止せざるを得なくなり、自宅礼拝となりました。今のところ5月3日までを予定していますが、ホームページに礼拝式次第、祈り、説教を掲載しますので(利用できない方へは郵送します)、各自、日曜日(主日)の午前10時30分にそれぞれの場所で礼拝をささげていただけたらと思います。場所は離れていても、主にあって一つに結ばれて、祈りのうちにこの難局を乗り切ってまいりましょう。
さて、このような状況ですから、今年のイースターは共に集えず、祝会もないので、喜びが半減したように感じられる方も多いかもしれません。しかし、イースターの本当の喜びは、イエス様の復活を信じる私たちもやがて復活させられることの中にあります。
「復活させられる」とは、神様によって復活させられるという意味です。イエス様も、御自分の力で復活したのではなく、真の神でありながら真の人となられたので、一人の無力の人間として十字架の上で殺されました。そのイエス様を父なる神様が復活させられたのです。
十字架の上で苦しみながら息を引き取られたイエス様の姿は、弱い私たち人間がこの世でいろいろなことで苦しんだり傷ついたりしている姿です。しかし、無力な私たちをも、神様がその力強い御腕でもって復活させてくださるのです。ですから、イースターの本当の喜びは、終わりの日、終末の時に与えられます。
このことを聖書は、「過ぎ越し」という言葉で語っています。ユダヤの過越祭のもとになった言葉ですが、「通り過ぎる」という意味があります(出エジプト15:16参照)。死や苦しみを通り過ぎて、復活の命に生きるようになることです。地上のあらゆる苦しみや困難は、やがて過ぎ去って行くことを思い起こしましょう。
それはまた、新しく造り変えられることでもあります。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6:5)とあるように、イエス様を信じる人は、地上の人生で苦しむことがあっても、そのことでかえってイエス様の復活の姿に近づいていくのです。「あやかる」は「肖る」という字を書きます。肖像画のように、イエス様の姿に似たものとなるのです。
しかし、「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのような姿になるかは、まだ示されていません」とも言われています(一ヨハネ3:2)。イエス様に似た姿とはどんな姿なのか、その詳細はまだ分からないのです。
ある人は、楽園から追放される前のアダムとエバのような姿になるのではないか、と言います(創世記2章参照)。罪を知らず、互いに愛し合う人間です。地上の私たちは今なお罪や欲にまみれていますから、罪もなく、自分勝手なこともせず、相手を思いやる人間に造り変えられるのでしょう。
それは終わりの時と申しましたが、聖書の別の言葉では、新しい天、新しい地とも呼ばれています。そこでは、「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われています(黙示録21:1, 4)。人間の罪のせいで苦しんだり悲しんだりすることもなく、自然の災害で苦しむこともなくなるのです。
今日は、イエス様が死者の中から復活された喜びの日です。私たちもやがて復活することを喜ぶ日です。共に集えないことは誠に忍びがたいことですが、それぞれこの喜びを心に留め、これからの日々を共に祈りのうちに歩んでまいりましょう。

<祈り>
神様、復活祭の喜びを感謝します。イエス様を復活させてくださったように、イエス様を信じる私たちをも復活させてくださることを感謝します。地上の生活はなお悩み苦しみに満ちていますが、イエス様の十字架の姿にあやかることにより、私たちもその復活の姿に少しでも近づいていくことができますようお導きください。
本日から教会堂に集ことができず自宅礼拝となりましたが、一日も早く教会堂に集うことができますようお願いします。新型コロナウイルスの感染に苦しむ患者の方々、治療や看護に携わる医療関係の方々を顧み、この艱難が一日も早く過ぎ去りますようお願いします。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

<讃美歌> 147

<献金> (後日、教会で献げるための用意をしてください。)

<頌栄> 543

<黙祷>