
イエス様は、宣教活動を始められる前、四十日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられました(マタイ4:1-11、マルコ1:12-13、ルカ4:1-12参照)。毎年、四旬節第1主日に聴く御言葉ですが、聖書の「誘惑」という語には「試練」という意味もあります。同じ言葉が、「誘惑」と訳されることもあれば、「試練」と訳されることもあります(ヤコブ1:12-15)。
試練も誘惑も、悪魔が私たち人間に働きかけて、神様から離れたり、罪を犯したり、信仰を失ったりさせようとする悪い企みです。誘惑の場合には、悪魔は物質の豊かさ(ルカ4:3)、人を支配する快楽(同4:5)、人から褒められる楽しさ(同4:9)などを与え、人を神様から引き離し、傲慢な人間にさせようとします。イエス様はこれらの誘惑に打ち勝たれました。
「試練」という言葉は聖書では、「苦難」と同じような意味で使われています。悪魔が人に苦難を与え、信仰を弱らせようとします。しかし、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を生む」とあるように(ローマ5:4)、苦難の中でも神様に信頼し、これに耐えるならば、練達すなわちキリスト教的な人格(品格)を身に着けることになります。
試練(苦難)にしても誘惑にしても、神様が私たちに与えるのではありません。「神様は人を誘惑したりなさらない」とあります(ヤコブ1:13)。悪魔が私たちに試練や誘惑を与えてくるのです。それを神様は、ある程度までお許しになっているにすぎません。
そのため、主の祈りでも「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈ります(マタイ6:13)。「悪魔が私たちに試練や誘惑を与えるのをお許しにならないでください」という意味です。現在礼拝で用いている主の祈り(1880年訳)では「こころみにあわせず」ですが、最近の新しい口語文(2000年訳)では「わたしたちを誘惑に陥らせず」と、本来の意味に近い言葉遣いになっています。
一コリント10:13にも、神様は「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。
試練や誘惑は悪魔から来るものですが、神様は「わたしたちの益となるように、御自分の神性にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(ヘブライ12:10)とあるように、ある程度はお許しになります。「主の鍛錬」とも言われています。
試練は辛いものです。誘惑も、これに抵抗するときには、辛いものです。イエス様の荒れ野の誘惑の場合ですと、物質の豊かさの誘惑に抵抗されたイエス様は空腹でした。人を支配する誘惑に抵抗することは、人の言いなりになり、人に頭を下げることで、これも辛いです。人から褒められる誘惑に抵抗すると、僅かの人にしか理解してもらえず、これまた辛いです。
しかし、試練にしても誘惑にしても、これらを通して神様は、私たちの信仰を鍛え、御子イエス様と似た者となり(一ヨハネ3:2)、永遠の命に生きるようにと導いてくださっているのです。